長崎創価学会 出島

長崎創価学会 唐人屋敷跡門

長崎創価学会 旧渕村旧蹟説明板

長崎の街を歩くと、様々な場所で西洋や中国の文化を感じる独特の風景や建物等が目に飛び込んできます。その他にも、人々の暮らしや言葉、食べ物など生活に根付いているものも。 その根源を探る時、長崎が果たしてきた世界との交流の歴史が蘇ってきます。

今月、一冊の本と出会いました。タイトルは『出島図-その景観と変遷-』。これは出島を史跡として整備する長崎市出島史跡整備審議会が国内外から収集した多数の出島関係の絵図・古地図などと共に研究論文や図版解説などを加え上梓したものです。

1570年、当時長崎を統治していた大村純忠とイエズス会との間で貿易協定が結ばれ、翌年からポルトガル船の入港が開始されました。
以来、1859年にオランダ商館が廃止されるまでの間、出島は西洋文化の窓口としてその役割を果たします。また、主に中国南東部出身で長崎では唐人と呼ばれる人々が、多い時は1000人も生活をしていました。さらに稲佐山の麓にはロシア村が形成されるなど、長崎は国内初の多国間貿易拠点としても大きく発展しました。

当時の制度には現代と異なる点が多々ありますが、一方で今構築されている多文化共生社会のパーツを垣間見ることができます。
世界は、未だに分断と対立の鉄鎖を断ち切れていません。だからこそ、全ての人々が安心して生活を営むことができる社会の実現を目指し、生命尊厳の哲理に基盤をおく多文化共生社会を今こそ実現したいと思います。(弘)