長崎県創価学会が所蔵する被爆証言映像の一部(41名分)を国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館へ寄贈しました。
この被爆証言映像は被爆50年となる1995年、被爆体験の継承と証言の保存を目的に青年を中心に取り組んだ貴重な証言映像です。
寄贈式では、証言者家族でもある長崎女性平和委員会・古場委員長があいさつに立たれましたので、抜粋しご紹介します。
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被爆75年の8月9日を、新型コロナウイルスの蔓延という世界的な脅威の中で迎えることになるとは思いもかけないことでした。誰もが大なり小なり命の危険を感じるなかにあって、命の尊さを改めて考える機会でもあります。
75年前、原子爆弾の投下によりこの地で起こった悲劇は人類が決して忘れてはならない命の破壊でした。紅蓮の炎が渦巻く中で74000余の尊い命が無残にも奪われ、心と体に大きな傷を負った75000余の被爆者の憤りと悲しみは癒えることはありません。この長崎で生まれ育った私にとって原爆への怒りと恐怖は、知らず知らずのうちに心に染み込んできたように思います。その心で創価学会の平和運動に連なり、長崎市の被爆遺構を案内する平和案内人の活動をスタートして7年。活動を進める中で実感するのは、被爆者の方々が高齢になられてなお語られる言葉の力です。
「熱かった。怖かった。痛かった。辛かった。引き裂かれる悲しみ。悶えるような苦しみ。」
原爆を知らない世代や世界の人々に伝えることを自身の役目と捉えて語り続けておられます。しかし、そんな被爆者の方々の存命中にこの地上から核兵器がゼロになることはないでしょう。それでも被爆者の核兵器廃絶への願いは続きます。忘れてはいけないのです。
生みの母は、私が6歳の時に突然倒れ帰らぬ人となりました。32歳でした。後年、原爆症であったこと、母が被爆者であったことを知った時、原爆のどす黒いススが自分の体の中に流れていることに慄然としました。それでも、亡き育ての母から被爆時の話しを聞き声の重みを感じたことが平和への原点となりました。
育ての母の語る姿が25年前に青年の手でビデオに収録され、被爆75年のこの時に蘇ったことは、私にとって原点に戻る思いです。
大規模な平和運動がコロナ感染防止の為に自粛となる中、母をはじめとする新たな被爆者の声と姿が追悼祈念館に納められ核兵器なき世界の実現に向けた行動の一助になることに深い感慨を覚えます。
これからも世界中の人々が、被爆者の声に心を寄せ平和への連帯が更に大きく広がっていくことを願ってやみません。