長崎創価学会 ~長崎から生命尊厳の哲学を全世界へ~

長崎復興の歩み

長崎に原爆が投下された理由は?
長崎には、戦争に使用する武器や戦艦を生産、修理する軍需工場がありました。そのため、米軍の原爆投下目標の対象候補地の一つとなりました。8月6日に広島へ原爆が投下されたのち、8月9日、2発目を積んだ爆撃機は福岡県の小倉を目標に飛んでいました。しかし視界不良のため、目的地が長崎に変更され、原爆が投下されました。

1945年8月9日 午後11時2分 原子爆弾が炸裂(さくれつ)

死者 73,884人
重軽症者 74,909人
罹災人員 120,820人
罹災戸数 18,409戸

原爆資料保存委員会の報告(1950年7月)

★ちなみに、原爆投下の候補地は17都市ありました。そのうち一つの京都が外れた理由は、かつての首都であり、歴史的価値の高い文化財が集中する京都に原爆を落とすことで、アメリカに対する非難が高まり、占領政策に支障が出ると考えられたからです。

長崎の街はどのように復興していったの?
原爆投下から1年後の1946年、国の復興計画の目標となる「戦災復興計画基本方針」に基づき、復興への歩みが始まりました。さらに、4年後の1949年8月9日、国が長崎市を「恒久平和の理想を達成するため」に国際文化都市と定め、原爆落下中心地及びその付近一帯を平和公園として整備することになりました。こうして復興が進んでいきました。
現在の長崎は?
古くから港町として栄えた長崎は、海外と関わりが多く、戦前から力をいれていた貿易、観光を中心とした復興が期待されました。
今では、稲佐山の夜景やグラバー園、眼鏡橋、ランタンフェスティバルなどの人気スポットやイベントがあり、国内外から多くの観光客が足を運ぶ魅力的な街となっています。
また長崎には、さまざまな被爆遺構が残されており、平和学習のために多くの修学旅行生の受け入れも行っています。現在は、多くの国と姉妹都市を通じて提携を結び、平和都市「ナガサキ」として世界中に平和の尊さを発信しています。

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