高田末子さん(当時6才)
千葉県在住
高田末子さんは長崎健伊良林街の自宅で被爆。
爆心地から3.5キロの地点でした。
被爆の時の様子
私は防空頭巾を取りに家へ入って、道へ出たところで転んで泣いていたんですけど、その時に原爆か落ちたんです。すごい光っていうか、八月ですので一番暑い時で、陽がカンカンに照っていたんですけど、それ以上の光っていうか明るさが、すごい明るくなったんです。
浦上川っていう長崎では一番大きい川なんですけども、その川の中に馬とか牛とか人が飛ばされてそこに入ったか、水を求めて入ったか、そこで死んで浮いているんですよ、膨らんじゃって。すごい見られないぐらいに、それがたくさんその川の中に入ってました。後遺症との闘い
被爆して一週間ぐらいしてから母が鴨野家が抜けて、頭が痛い、すごく割れるように痛いと言って寝込みました。胸もそのうちに痛くなって苦しいと言って一年ぐらい寝てました。私も八月の終わり頃から体がだるくなって倦怠感がひどくって、そのあとに下痢か続いて。それか何も悪いもの食べてはいないのに、下痢がずっと続いて治らないんですよ。そうやっているうちに、今度は歯ぐきから出血か始まったんです。いつも血が出て、夜なんか口の中にいっぱい溜まって、拭き取らないといけないほど血が出てたんですね。一年生に入るちょっと前ぐらいから、紫斑点が体のあちこちにできるようになりました。小学校六年生ぐらいになった時に、42度ぐらいの熱続いたんです。熱でうなされるから、そのうなされた時に、原爆の落ちて翌日に行ったその情景が、やけどして「助けてくれ」って見えたその人だちか出てくるんですよ。それで寝ていられなくて走って逃げようとすと、母からよく「どこに行くんだ」つて言われました。
病院に行ったら、白血球か1400しかないということで、「すぐ入院しなさい、これは典型的な原爆病だ」って言われたんです。入院している時に、同じ病気で入院している方たちが夜洗面所で会って、それで九時ごろ「おすみなさい」と言われた人が十時頃になるとうめき声が聞こえて、だんだんと「苦しい、苦しい」ってすごい声で泣かれるんです。それかだんだんと弱まって四時頃になると亡くなられる。そういうのを聞いていると、この次は自分じゃないかというその恐怖と、その死の恐怖がすごい強くって、毎日夜になるのか嫌で、目が覚めた時は「よかったなあ」、いつもそれの絲り返しで。また夜になると思うと本当に自分で身を割かれるような感じでした。そういう風に思って、ある時に早く死んだ方がいいんじゃないか、って思って、屋上に何回も上がって手すりの上に上ったこともありますけども、それじゃやっぱり親が一生懸命にやって私の世話をやってくれているだからっていうことで、思い直して部屋へ帰ったことがありました。戦争を知らない世代へのメッセージ
絶対に核兵器は作っちゃいけない。それを作ると使いたくなる、用いたくなる。本当にそういうのは使っちゃいけない。戦争も絶対やっちゃいけないんじゃないか。そうしないとあたしたちのようなものをまた繰り返し、そういう人ができる。苦しんで、この世に生まれてからずっと生き地獄っていうか、原爆に遭ってから。そういうのを皆さんに味あわせたくない。自分だけでこれで止めたい、自分はそう思っています。これからの人は絶対戦争は起こさないということで、私もこの平和について語っていきたいと思っています。